とあるデザイナーの自分語り

 

 

わたしは今、とある小さなゲーム会社でデザイナーをしている。任される仕事は3Dがメインだが、2Dもだったり色々である。

 

二年目の今は、インプットという名目でゲームやアニメに多めに時間を費やしているが、去年はあちこちの同人イベントに出展したりしていた。就職一年目なのによくやってたと思う。そのあたりのことについては、いつか気が向けば記事にするかもしれない。

 

絵を描いていると、イベント会場やツイッターなどで、「いつから絵を描き始めたの?」と聞かれることが良くある。

 

これは多分、いつから今のような作風のイラストを描く練習をし始めたの?というような意味合いなのだと思うが、この問いに対してわたしは、「物心ついた時から」としか答えることが出来ない。わたしの中では本当に、すべてが繋がっているのだ。

 

ここに至るまでの経緯を、とりとめもなく語ろうと思う。

 

幼いころ、いつも母親の趣味でブランド物の子供服を着て、小綺麗な恰好をしていた。

 

そのあたりのことを妬んでか、よく「金持ちでいいよね!」と嫌味を言われたり、ハブのターゲットにされたりしていた。

 

母親はわたしがされるがままになっているのをよく思っておらず、やられたらやり返しなさい! などと言いながらいつも怒っていたが、わたし本人はというと、ファッションとかカーストとか、そういうのはよく分からないし興味もなかった。

 

そりゃあハブられたり虐められたりするのは嫌なのだが、それを恐れて周りに合わせるよりも、今日の夢の中に出てきた妖精のことについて考えたり、見上げた空に浮かぶ雲の中に住んでいる伝説の生き物の存在について考えることのほうが、はるかに重要だった。

 

要するに妄想癖のある変人だったのである。ハブられていたのはそのせいもあると思う。

 

わたしのような人種は、もっと地味な服装をしていたほうが平和に過ごせていたんだろうな、と今となっては思う。

 

物心ついた頃からずっと、絵を描くことが好きだった。休み時間はずっとノートに漫画を描き続けてページを埋めていたし、もっと幼かった頃も、とりあえず紙とペンを与えておけば大人しくなったと親が言っていた。

 

よく絵を描いては大人に褒められていたのも妬まれる原因だったのか、交換日記に絵を描いたら、らくがきは禁止! とメンバーから怒られた。つまらなくなったので、わたしはその交換日記のメンバーから抜けた。

 

わたしの父親は、絵が上手いプログラマーだった。わたしの考えたキャラクターをパソコンの中で動かしたり、わたしが登場するゲームを作ってくれたりした。わたしが知りたいと言った話を描いて漫画にしてくれたこともあったし、創作漫画のストーリーを一緒に考えたこともあった。

 

そんな父親は、わたしが小学校低学年のころ、脳ガンで死んでしまった。

 

母親とわたしの誕生石はルビーとサファイアで、父親の誕生石はエメラルドだった。

 

父親と共にポケモンのルビー・サファイアを遊んでいたとき、彼がエメラルドも発売されればいいのになと言っていたのを覚えている。エメラルドが発売されたのは、彼が死んだ後だった。

 

あの頃のわたしはまだ幼く、父親の細かい性格や人柄は覚えていないが、わたしの変な性格や趣味は彼からの遺伝だと思っている。

 

長らく放置されていた父親の遺品整理をしていて、性癖を拗らせたエロゲを発掘してしまったのはわりと最近のことだ。ちょうどわたしも少し拗らせた作品にハマっていたところだったので、共に過ごした時が短くても親子は似るものなんだなぁと不思議な気持ちになったものだ。ちなみに遺品は母親にバレないよう、全て処分した。

 

わたしが3Dデザイナーとして就職したあとに、父親も趣味で3Dをやっていたと母親から聞かされたときも、また共通点が、と笑ってしまった。

 

父親が亡くなった後、片親になったわたしを心配してか、狂暴だった母親は急に優しくなり、父親に代わってよく褒めてくれるようになった。

 

その後は、市民会館で開催していた子供のための無料の水墨画教室に、母親が連れて行ってくれるようになった。そこでも水墨画協会のおじさん・おばさんたちによく褒めてもらい、展覧会ではジュニア大賞を取った。

 

そんなこんなで絵と妄想以外の事柄には興味を持たず、絵に関しては褒められながら育ち、長らく闘争心とかそういうものとは無縁に生きてきたのだが、ある日、小学校で事件が起きた。

 

わたしは自分たちの学年の教室が並ぶ廊下を歩いていた。教室の中はどこも人気がなかった。詳しくは覚えていないが、わたしは下校時間後に忘れ物を取りに戻ったとか、体育の授業中に何かを取りに戻ったとか、そんな感じの状況だったのだと思う。

 

全ての教室の後ろの壁には、美術の授業で描いた静物画が、ずらっと並べて貼りだされていた。その中にはもちろんわたしの絵もあって、描いたときにはやはり先生たちから上手いねえ、と褒められたものだ。

 

同じ学年の違うクラスの教室の前を通りかかったとき、ふたりの教師が一枚の絵の前で、何かを話しているのが目に入った。教師のうちの片方は、わたしが絵を描いているときに褒めてくれた教師だった。

 

教師たちが見ていたのは、Nさんという同級生の絵だった。Nさんの絵を、ふたりの教師たちは褒めたたえていた。

 

「ずば抜けて上手いわよねえ、特別な習い事でもしてるのかしら?」

 

「特別な才能があるのねえ」

 

わたしはショックを受けた。だって、この学年で一番絵が上手いのはわたしのはずなのだ。あの教師だって、わたしの前ではわたしの絵が上手いと言っていたのに、あれは嘘だったのだろうか。

 

わたしをハブにしていた気の強い女子でさえ、「あんたは絵が上手いからいいよね」なんて言っていたのに。

 

小学生の頃の出来事なんて、社会人の今となってはほとんど忘れてしまったが、その日のことはわりと鮮明に覚えているので、よっぽどショックだったのだと思う。

 

それまで、上手く描こうなんて意識したことはほとんど無かった。上手く描こうと思わなくても、わたしが好きなように描いたものをみんなは上手いと言う。だから当然のように、わたしの絵はいつだって上手いのだと思っていた。

 

その日、初めてわたしは、意識して絵を上手く描くようにしようと思いはじめた。学年で一番絵が上手いのは、わたしでなくてはいけないのだ。

 

小学生の間、Nさんと同じクラスになったことは無かったと思う。だけどわたしはというと、あれからずっとNさんのことを気にしていた。

 

 

 

中学に上がり美術部に入ると、わたしとNさんは共通の友達がいたという理由で、部活内で同じ机を囲むようになった。

 

わたしもNさんも、自分からグイグイ行くタイプではなかったので、仲良くなるのには1年間くらいかかったような気がするが、なんとか、そこそこ仲良くなった。まだ、少しぎこちない部分もあったが。

 

美術部では絵を描くだけではなく、タイルアートを作ったり、電鋸で木を切って工作をしたり、とにかく色々なものを作った。同じ机の仲間たちで協力して、大きい作品を作ったこともあった。放課後に美術部に通うのが、毎日の楽しみだった。あのとき同じ机だった仲間たちとは、Nさんも含め今もよく遊んでいる。

 

中学校には別の小学校から来た子もいて、美術部には絵の上手い同級生がたくさんいたので、さすがのわたしも「学年で一番絵が上手いのはわたしだ!」とまではもう思わなくなっていた。わたしはそこで、実力ある人たちに尊敬の念を抱くことを覚えた。

 

平和ポスターコンクールで、わたしとNさんが一緒に賞を受賞し、同じ表彰台に立ち、一緒に広島に行ったこともあった。

 

Nさんとようやく同じクラスになった中学三年生のある日、席替えで、Nさんがわたしの後ろの席になった。

 

Nさんは、授業中に漫画を描いていた。

 

わたしはそれまで、休み時間はノートにかじりついて絵を描いていたとはいえ、授業中に授業に関係のないらくがきをしたことが一度も無かった。その発想すら無かった。

 

自慢するようだが、わたしは小・中学とずっと体育以外の成績はほぼオール5で、先生の話を余さず聞いて綺麗なノートを作るのが大好きな真面目な生徒だった。

 

そんなわたしはNさんが授業中に書いている漫画に真新しさと興味を感じ、授業中に何度も後ろを振り返って彼女の手元を覗いては、周りにバレるからやめてと本気で怒られたものだった。

 

その後、Nさんの真似をして授業中に絵を描き出したわたしの成績はみるみる落ちた。

 

Nさんも成績が良かったのだが、彼女は授業とお絵かきを両立できるタイプだった。わたしは、できないタイプだったのだった。

 

わたしは進学塾に通っていたのだが、塾でも成績は落ち、さらに授業中に絵を描いていたところを教師に見つかって、親まで呼ばれて怒られる事態になった。わたしは塾ではずっと成績が高いクラスの方にいて、進学は安泰と思われていたのに、そんなわたしの成績が卒業を目前にして落ち始めたものだから、それは大騒ぎになってしまった。 

 

今までの努力が無意味になってもいいのか? と、教師に怒られた。だが、別にいいと思ってしまった。

 

たくさん勉強して良い進路に進めば、何にでもなりたいものになれるよ、と、ずっと大人たちから言われてきた。なりたいものが何なのか、深く考えていなかったが、そのときなりたいものが選べるのならそれでいいかなと、当然のように疑がわずに勉強をしていた。

 

だが、進路が揺らいだそのとき初めて、気づいてしまったのだ。たくさん勉強して、頭のいい高校に行き、そこでまたたくさん勉強して頭のいい大学に行き、そこでまた勉強することになる。

 

これでは、いつまで経っても勉強ばかりで絵が描けないではないか。わたしはなぜ今まで、真面目に勉強なんてしていたんだろうか。

 

わたしはそのとき美大進学を目指すことに決めたが、卒業目前だったこともあり、高校はそのまま、目指していた進学校へと進んだ。

 

 

 

高校の授業は地獄だった。なんとか入学試験に合格はしたものの、あまりにハイレベルな授業に、全くついていけなかった。一度らくがき芸人と化してしまったわたしは、もう元に戻ることは不可能になっていた。

真面目に授業を聴いてみても、先生が何を言っているのか微塵も理解できない。気付いたら寝ていた。何度も個人面談のために呼び出され、卒業単位もギリギリのギリのお情けみたいなものだった。

 

これだけ語るとただの地獄だが、わたしはそこで最強の友人を手に入れた。優秀な学校には、相応の魅力ある人間が集うものなのだなと、本当に思った。それだけで、この高校へ行った意味はかなり大きかったと思う。

将来的に英語の先生になるその友達は、死ぬまでに一度は絶対に行ってみたかった外国・オーストラリアに、わたしを連れて行ってくれることになる。人生で一番楽しい旅行だった……。一度といわずまた行きたい。

 

本題に戻ろう。高校入学時からすでに美大進学を決めていたわたしは、放課後は美大予備校に通い続け、卒業までに三年間の修行を積んでおり、その後は予定通りに美大受験をして、美術大学に通い始めた。

 

 

 

美大でわたしは、友達ができなかった。一応これでも、わたしなりに友達を作る努力はしたのだが、見事に一人もできなかった。

 

美大のいいところは将来役に立つコネができること! とはよく聞くが、わたしにはそのコネは無い。そもそも妄想癖を拗らせた変人コミュ障のわたしが、中高で友達を作れたことの方が奇跡だったのだ……

 

そのことは置いておいて、美大では与えられた課題を個人個人で期限内にこなし、完成後には教師が一人一人の作品に対して意見を言っていく講評会が行われるのだが、これがまた地獄だった。

 

あれはただの、教師たちの好みの絵を紹介する会だった。写実的な絵ほど褒められ、わたしの描いた妄想癖の滲み出た絵はことごとく貶された。褒められ続けた幼少期の面影はもはやどこにもなかった。

 

わたしの絵だけでなく、わたしが好きだなぁと思った人の絵もことごとく貶された。反対に、わたしがよく分からないなぁと思った絵は絶賛されていた。

 

普通に、わたしと教師陣の好みが真逆だったのだと思う。

 

幼少期、褒められ続けるわたしを傍目に、美術なんて嫌いだ、と言っていた子の気持ちを深く理解した。

 

友達はいない。教師好みの絵を描き、毎回褒められて誇らしげな同級生たちの様子を何度も何度も見せられながら、自分の絵や自分が良いと思った絵が褒められることは決して無い。これが四年間ずっとである。

 

たかが個人の好みと思うかもしれないが、美大の講師は一応、その道のプロなのである。人生を捧げてきた絵をプロにひたすら否定され続けたわたしの心は、ほとんど砂漠と化した。

 

わたしの絵を褒めてくれたのは、ツイッターのフォロワーたちだけだった。あれがなかったら絶対ボッキリ折れてた。ありがとうフォロワー。愛してる。

 

そんなこんなで四年が過ぎ、最後の大作、卒業制作。最後まで、わたしは作風を変えなかった。自分の心と、わたしの絵が良いと言ってくれるツイッターのフォロワーの言葉を信じた。

 

当然のごとく、教師陣が選ぶ学内の賞は1つももらえなかった。が、学外の賞を得た。

 

受賞したわたしの卒業制作は、その後1年の間、大学病院に展示された。きっと多くの患者さんの心の癒しとなってくれたに違いないと思いたい。

 

絵の魅力が分からない大学教師どものことと、卒制が受賞した件について、飲み屋でNさんに愚痴ったら、報われて良かったねぇ、と笑ってねぎらってくれた。ちょっと泣きそうだった。

 

ここにきてまでNさんと友達でいられているのは、運命なんじゃないかと思う。わたしはNさんのことが大好きなのだ。

 

その後、地獄の就活期間があり、わたしはかつてない鬱症状や体調不良に悩まされることになる。長くなるので割愛するが、大学の就活相談窓口のお姉さんに、どうしてそんなに自信が無いの?w と笑われたことだけは記しておく。この大学のせいだよ。

 

結局、わたしはゲーム会社のデザイナーに、Nさんは絵とはあまり関係なさそうな会社に就職した。

 

Nさんが好きで今の仕事に就いたのか、事情があって否応なくなのか、今後別の何かになるつもりなのか、わたしにはわからない。が、今も趣味の絵を描き続けているNさんは、いつかひょっこり、こちらの道に戻ってくるかもしれない。

 

そのことを考えるとちょっと怖いので、わたしももっと上手くならなくては、と、思ってはいる。家にいるときは、絵よりもアニメやゲームに割く時間のほうが多いが。

 

すっかり闘争心の薄らいだ、つまらない大人になってしまった。

 

 

 

芸術に、良いも悪いも無いと思う。

 

見る目によっては、どんな絵だって美しく映る。

 

こんなのは、大学で貶され続けた末に生まれた負け惜しみの感情かもしれないが、こう考えるようになってからのほうが、世界が綺麗に見えるようになった気がする。

 

あのころ褒められ続けていたわたしが言うことではない気もするが、小学生のころから絵に優劣をつけて評価する美術の授業のやり方は間違っていると思う。

 

学校で褒められないような絵にだって、その絵にしかない魅力がある。人生の序盤から優劣をつけて、心を折ってしまうのは勿体ない。

 

だけど、多くの人に上手いと感じさせる絵を描けるようになるためには、闘争心も必要だと思う。この辺りは難しいところで、はっきりとした答えはわたしにもまだ分からない。

 

わたしが小学生の頃は、身近なライバルはNさんしかいなかったが、最近はSNSが発達して、若い子も同年代のすごく絵の上手い子を見る機会が増えたことと思う。若くして心を折られる機会も増えただろう。わたしが今の時代の小学生だったら、もしかすると違った道を歩んでいたかもしれないとさえ思う。

 

その荒波を乗り越え、生き残った若き神たちが今後たくさん現れるかもしれないと考えると、空恐ろしい。